2009年05月13日

忌野清志郎さんのこと

というタイトルの文章を書こうと思ってこの10日間くらいパソコンに向かっていたのですが、長く長くなってしまって収拾がつかなくなってしまったので、その文章はここに載せるのはやめにして、代わりにざっくばらんに追悼の思いを記しておきたいと思います。

1980年から81年にかけて東京都多摩地区で高校1年生をやっているということは、おまけに同級生とバンドのようなものを組んでロックのようなものをやっているということは、もうそれだけで彼の弟分みたいな宿命になってしまうのでした。友人が『ラプソディ』のテープを持ってきた日のことは今でも忘れられません。当時の僕は英米のロックを聴きながら、スタッフやウェザー・リポートも聴いていたし、すでに『ゲッツ/ジルベルト』も聴いていたのですが、ほぼ100%海外の音楽しか聴いていなかった中で、彼の音楽だけは非常に直線的に心の中に入ってきました。それは多分に彼が多摩地区の出身で、スリークッションくらいの知り合いが周囲にたくさんいて(「キヨシなら知ってるよ」)、何となく親近感があったことも影響しています。ついでに言うと彼ならではの「ダブル・ヴィジョン」とでも呼ぶべき透徹した客観性と、ある種の野暮ったさを自認しながらエネルギーにしていくような感覚は、多摩地区の人間ならではの屈折が影響していると思います。

僕が彼に対する興味を失ったのは、坂本龍一と歌っているのをテレヴィで観てからでした。たぶん1982年だったと思います。何だか違ってしまったなあと思ったことを覚えています。ちょうどその前後から僕はロックをほとんど聴かなくなって(ジャズにのめり込んでいって)、日本国内のミュージシャンにも食指が動かなくなって、そのあと彼のことを気にしたことは一度もありませんでした。だから今回のニュースを知って(ちょうど僕たちは伊豆にいて、相方の友人がメールをくれて、彼がその前日に亡くなったということを知りました)、そのあとしばらく気分が重くなったのは、自分でも意外な感じがしています。

もう一つだけ言っておくと、彼はどうすれば日本語がメロディに自然に乗るかということを非常に真剣に考えていたミュージシャンです。歌を聴いているとそのことが非常に良くわかります。ボサノヴァを聴いている人にはそれがわかるはずです。

今はただ哀悼を捧げたいです。最後にあの夏の忘れられない第一声を。

「西武球場と言えば、昔よく、昆虫採集に来たぜ!」

80年代初頭の多摩地区の偉大なアニキ、忌野清志郎さんのご冥福を心から祈ります。
posted by naoki at 00:32| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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