2011年05月13日

東北の名前のない海岸とヴィラ・ロボス

「何をしている?」と知人からEメール。「仕事をしている」とEメールを返信する。この2ヶ月間はちょっとばかり仕事をしている。僕はもともと起きている時間には、仕事をしているか、飲酒をしているか、その両方を同時にしているかという人間だが、この2ヶ月間は眠っている時間をちょっと削って仕事をしている。目の前にするべき仕事があるからだ。

4月の1週目以降、東北には何度行っただろう? 4日間掛けて福島県から岩手県まで走って、そのあとにいわきに行って、それから仙台に行った。今週も月曜日にまたいわきに行って、水曜日にまた仙台に行った。来週の火曜日は盛岡だ。それは今の東北にこれが自分の仕事だと思える仕事があるからだ。

おそらく、今の僕の仕事は、大変な困難を乗り越えて前を向いて生きている人たちの言葉を伝えることだと思っているので、そういう取材の仕事がメイン。でも、取材から取材へと車を走らせていると、ほとんど不意打ちに近い形で、津波で甚大な被害を受けた地域のど真ん中に足を踏み入れてしまっていることがある。最初は何が何だかわからなかった。ただ呆然とするしかなかった。哀しいとか淋しいとかいう気持ちとは違う。どちらかと言うと静かな気持ちだ。あるいは無感覚に近いものだ。どんな言葉も当てはまらない。非常に特殊な感情だ。今でも良くわからない。ああいう光景に当てはまる的確な言葉など、どのような悲劇を背負った民族にも持ち合わせはないと思う。

4月の初めに4日間掛けて東北を縦断した時に、ほんの2、3枚だけCDを持って行っていたのだが、その中の1枚がホベルト・ミンチャックのヴィラ・ロボス「ブラジル風バッハ」だった。津波で一面何もなくなってしまった荒野に、ヴィラ・ロボスは怖ろしいくらいに溶けて流れていった。ヴィラ・ロボスはまるで今日のこの情景を想定してこの曲を書いたのではないかと思えるくらいだった。なるほどそういうことだったのかと僕は思った。

津波の被害が大きかったある海岸で車を降りてみた。そこには音がない。まったく音がしない。そういう状況を今の東京で想像できるだろうか? でも、音楽を愛している人間はそういう状況を想像してみるべきだ。それは音楽の歓びと裏表のところにある光景だ。あるいは「紙一重」の状況と言うべきかもしれない。僕はそこから、そういう荒野の真ん中から、自分が愛する音楽を聴いていきたいと改めて思った。

posted by naoki at 03:09| Comment(0) | 今日の1曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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