2010年05月12日

Sinatra Jobim / The Complete Reprise Recordings

フランク・シナトラとアントニオ・カルロス・ジョビンの二度のセッションの全曲を収録した「シナトラ・ジョビン・ザ・コンプリート・リプリーズ・レコーディングス」が発売されるそうです。69年の「Sabiá」と「Bonita」はもちろん、シナトラのリプリーズの20枚組でしか聴けなかった「Desafinado」も収録。これは楽しみです。


2010年01月11日

『ミーニャ・アルマ・カンタMinha Alma Canta』について

アントニオ・カルロス・ジョビンの『ミーニャ・アルマ・カンタMinha Alma Canta』がジョビン・ビスコイト・フィーノから再発売されています。このアルバムについては書籍でもブログでも紹介したことがなかったので、この機会に触れておこうと思います。

アルミール・シェヂアックのルミアール社から発売されていた『ソングブック』シリーズに、トム・ジョビンは積極的に参加していました。ノエル・ホーザ、ヴィニシウス・ヂ・モライス、カルロス・リラ、ドリヴァル・カイミ、エドゥ・ロボ、アリ・バホーゾ。1991〜94年に録音されたすべての『ソングブック』に参加しています。おそらくシェヂアックのこの企画の意図に大いに賛同していたのでしょう。シェヂアックにとってトムが最高の理解者だった様子が窺えます。もちろんそれ以前にトムにとってシェヂアックは最良の理解者であったわけですが。

それぞれのアルバムに1曲ないしは2曲収録されていたトム・ジョビンの演奏を1枚にまとめて発売されたのがこの『ミーニャ・アルマ・カンタMinha Alma Canta』でした。最初の発売は1997年だったと思います。それまで各アルバムにばらばらに収められていたトムの演奏が1枚で聴けるようになったので、ジョビン・マニアの間では重宝されていたアルバムでした。それが2009年になってジョビン・ビスコイト・フィーノから再発売されたというわけです。

1曲目はアリ・バホーゾの「ナ・バトゥカーダ・ダ・ヴィーダNa batucada da vida」(アリ・バホーゾの『Vol.1』に収録)。バンダ・ノヴァの演奏陣をバックにトムがピアノを弾きながら歌っています。一説にはトムのラスト・レコーディングとも言われている重要なトラックです(異説もあります)。この曲、『エリス&トム』の録音場面を収録した映像の中でトムが歌い出す場面があります。トムの長年のお気に入りだったのでしょう。

2曲目はノエル・ホーザの「トレス・アピトスTrês apitos」。バンダ・ノヴァをバックにトムがピアノを弾き語り、最後に女性コーラスが入ります。

続いてはエドゥ・ロボとシコ・ブアルキの「ショーロ・バンヂードChoro Bandido」(エドゥ・ロボの『Vol.1』に収録)。シコが歌っていて、トムもところどころ歌いながらピアノを弾いています。チェロの重奏が美しい。貴重なトラックです。

続いてのノエル・ホーザの「ジョアン・ニンゲンJoão Ninguém」は再びバンダ・ノヴァのバンドとコーラスをバックにトムがピアノを弾いて歌います。この曲の数ある演奏の中でもベストに挙げたい愛のある演奏です。

5曲目、トムとヴィニシウスの「ジャネラス・アベルタスJanelas abertas」(ヴィニシウスの『Vol.3』に収録)は、ガル・コスタのヴォーカルで、トムはピアノを弾いています。ガルは彼女にしては抑えて歌っています。間奏のトムのピアノにヴィニシウスへの想いが溢れています。

6曲目、カルロス・リラとヴィニシウスの「カリオカのサンバSamba do Carioca」(カルロス・リラに収録)はバンダ・ノヴァの楽しい演奏。そう言えばトムはこの曲を『カンタ・ヴィニシウス』でも歌っていました。

7曲目はアリ・バホーゾの「プラ・マシュカル・メウ・コラサォンPra machucar meu coração」(アリ・バホーゾの『Vol.2』に収録)。エドゥ・ロボが歌い、トムがピアノを弾きます。トムにとっては『ゲッツ/ジルベルト』から30年目の再録音ということになります。美しい演奏です。

8曲目はトムとヴィニシウスの「想いあふれてChega de saudade」(ヴィニシウスの『Vol.1』に収録)。バンダ・ノヴァの演奏で、アレンジは『イネーヂト』などと同じだと思いますが、このトラックはここでしか聴けないヴァージョンです。

9曲目のエドゥ・ロボとシコ・ブアルキの「ヴァルサ・ブラジレイラValsa brasileira」(エドゥの『Vol.1』に収録)はレイラ・ピニェイロが歌っています。トムはピアノ。なお、ブックレットには次の10曲目にもレイラ・ピニェイロの名前が書かれているのですが、これは誤植で、レイラが歌っているのはこの曲だけです。

10曲目はドリヴァル・カイミの「奇跡Milagre」(カイミの『Vol.1』に収録)。バンダ・ノヴァのまとまった演奏です。

11曲目はトムとヴィニシウスの「あなたなしでSem você」(ヴィニシウスの『Vol.3』に収録)。再びシコの歌で、トムはピアノです。説明不要。ここまで聴いてくると胸が一杯になってくる感じです。

12曲目、トムとヴィニシウスの「生涯かけてPor toda a minha vida」(ヴィニシウスの『Vol.3』に収録)はパウラ・モレンバウムの歌。チェロはジャキスで、『エリス&トム』でのヴァージョンを彷彿とさせるアレンジです。この曲、オリジナルのヴィニシウスのソングブックではジャキスとパウラの名前で収録されていて、トムがピアノで加わっているのは最初は発見できなかったものです。

13曲目はガルの歌で、トム=ヴィンの「さよならを言わなきゃならないÉ preciso dizer adeus」(ヴィニシウスの『Vol.3』に収録)。ピアノの音に独特の響きがあります。

最後はドリヴァル・カイミの「オ・ベン・ド・マルO bem do mar」(カイミの『Vol.3』に収録)。アナの歌にトムがピアノを付けながらハーモニーを歌っています。カイミも亡くなってしまった今となっては、本当にしんみりとしてしまう1曲です。このアルバムの唯一の欠点は、最後のこの曲が哀し過ぎることかもしれません。

トム・ジョビンのファンでいることのいちばんの淋しさは、新譜を聴くことができないことにあるのですが、そういう意味ではこのアルバムは普段ほとんど聴かれていない演奏を集めたものなので、未聴の方には絶好の贈り物になることと思います。編集盤ではありますが、上記のような意図で録音された演奏で構成されているので、全体の印象は非常に統一感があります。

なお、アルバムのタイトルはもちろんあの超有名曲の歌い出しの部分ですが、あの曲はトムのオリジナルですから、このアルバムには収録されていません。トムの愛唱曲を集めたという意味でこのタイトルが付けられているわけですが、聴き方によっては全体があの曲と同じく『リオ讃歌』のような仕上がりにもなっています。おそらくその意図もあるのでしょう。今さらながらアルミール・シェヂアックの丁寧な仕事に感心させられます。謹んで哀悼を捧げます。

2009年03月02日

『リオデジャネイロのジャルヂン・ボタニコ』トム・ジョビンとゼカ・アラウジョ

直線距離のジャルヂン・ボタニコ
トム・ジョビン

我が愛しのジャルヂン・ボタニコ
先験的な瞑想の
何度も僕は経験した
静かな並木道の砂の雨の中で。

ほんの夜明けの、早朝の、漆黒の時間に、
暗い朝、小川に沿って、
すばしこいハイムネモリクイナ、
非の打ちどころのないバレリーナ、
独特の歩調で行っては戻る。
頭から行って、背中から、尾羽から戻る、独特の軌跡で、
大水でできた大きな穴のあり得ない幻、
影のと太陽の球体の、
影の中の見えないものと太陽の中の見えないもの、
虹色の、アジアンタムの間に。

森林の中の散歩?
おお、僕はそれには陥らない!

マンガ・マライアは
これ以上ないくらいブラジルのものだ。
マンゴーの木の陰だった、
僕はほとんど君にキスするところだった、
君はすごくきれいだった、
でもこれ以上ないくらいつっけんどんだった!

我が友ハダメスは彼が持っているもの以上の最良のものだ、
森林の中の太陽の一日だ、人を好くことの恩恵だ。

独特に語られている人間たちが、
フレイ・レアンドロの小さな湖を掃除する。
深みから現われる、竹の網の中に、
枯れた植物に巻き付かれた、
最高に鋭い歯の、巨大なホーリー…

そして僕は一つの秘密を語ろう:
フレイ・レアンドロの小さな湖には、朝、ほんの早朝に、
時々、クビワヤマセミが、オビハシカイツブリが現われる、
池の岸の柱で休んでいる。美しい!
青、白、黒の色を:赤みがかった喉と胸を持っていて、
素敵なくちばしを持っている。
最も大きいのはマルチン・ペスカドールの全種だ。カワセミだ。

(後略)


「僕はコレクターではない」と言い張ってきた僕ですが、いつの間にかトム・ジョビンと名前が付いているものは片端から買い漁るようになっていることを自覚するようになりました。オリジナル盤にはこだわらないので高額な出費はまずしないのですが、最近は音源よりも文献の方に興味が向かっていて、どちらかと言うと秘境の中に足を踏み入れつつあります。深夜に時間ができるとインターネットで世界中の古書店の書庫を探索しています(探しているものはほかにもあるので退屈することはありません)。

それに世界というのは広いところで、ネット上にトム・ジョビンの愛好者によるちょっとした閉鎖的なネットワークのようなものが存在していて、僕はその末席を汚させてもらっているので、ブラジルやカナダやドイツの先輩方から、「**に**が出品されているけれどちゃんとチェックしているか?」などというメールが頻繁に送られてくるので、その度にぶつぶつと言いながらも(あんなこと言っておいて結局自分で出品しているんじゃないか!)、コレクションだけは山のように溜まってきてしまいました。

とりわけトム・ジョビンが自分で執筆した文章はなるべく掻き集めておいて、いつの日にかすべて日本語にして世に送り出したい……ここのところはそういう夢想を抱くようになってきています。その意味ではいちばん厄介なのがLP時代にほかのアーティストのアルバムの裏面に贈った献辞でして、これは今後いろいろとご協力をお願いしてちゃんと集めなければいけないなと思っています。

前置きが長くなりましたが、そのような秘境を旅している僕が、これはおそらく手に入らないだろうと諦めていた……そのうちにリオの図書館でテキストだけでもコピーに取って来なくちゃと思っていた……稀少な写真集を、昨年の後半に入手しました。

トム・ジョビンとゼカ・アラウジョの共作「ジャルヂン・ボタニコ・ド・リオデジャネイロ」。1988年にエスプレサォン・イ・クルトゥーラから発行された写真集です。ゼカ・アラウジョという写真家によるリオの植物園の植物や動物の写真に、トム・ジョビンが散文的なテキストを寄せていて、二人の共同名義で出版されています。

作品全体の水準は今の目で見るとこんなものかなと思ってしまうのですが、テキストは非常に、トム・ジョビンの個性が満ち溢れていて貴重です。僕は思うのですが、トム・ジョビンのアーティストとしての実像にいちばん迫ることができるのは、おそらくは音楽家と翻訳者です。僕はそのどちらでもないのですが、少なくとも辞書を片手にトムの文章に向かい合ってみることはできるし、そういう作業を通じてこれまでに少なからぬ発見をしてきました。

だいたい、トムの文章は翻訳者泣かせです。冒頭に掲げたこの詩にしても、半分以上の語句はポルトガル語の辞書に載っていなくて、フランス語の辞書とスペイン語の辞書も駆使して、もちろんネットも最大限に活用して、それでも全然足りないので、図書館で図鑑を閲覧して、それでもまだ足りないので、ブラジル人の友人に電話して、まあ何とかここまできたという状態です。

でもこういう作業の積み重ねは決して無駄ではないと、トム・ジョビンを理解するための「à vol d’oiseau」だと確信して……と言うよりも、これは僕には生きるために必要な作業なのだと捉えています。なぜだかわからないけれども、どこからかこういうふうになっちゃったのだから仕方がありません。

あと書きも長くなりました。どういう写真集なのかは後日ちょっとだけ写真を載せることにします。たぶん。

2008年06月26日

『コンポーザー』

8月6日に、トム・ジョビンのワーナーでの録音を網羅した『コンポーザー』がワーナーミュージックジャパンから再発売されます。主に『ザ・ワンダフル・ワールド・オヴ・アントニオ・カルロス・ジョビン』と『ア・サーテイン・ミスター・ジョビン』で構成された一枚です。Hさんのご配慮で、そのライナーを書かせていただきました。感無量です。

4千字から6千字という当初の予定をかなりオーヴァーしてしまいました。このくらいの文字数をいただけるとずいぶん思い切ったことが書けるかなと最初は思っていたのですが、なかなか難しいです。これが書籍であれば自由勝手に書き連ねていけば良いのですけれど、CDのライナーは役割が違います。初めてトム・ジョビンのCDを手にする人もいるだろうし、長年のファンにもある程度満足していただこうと思うと…。結果的に背景を説明するデータの網羅に終始してしまいました。しかし以前に日本で発売になった時の米国の解説者よりはまあちょっとはましな内容になっているかも、と思います。すでにお持ちの方も、ぜひお買い求めください。

このライナー、出張が立て込んでいた時期だったので、(1)最初の3分の1を吉祥寺の自宅で、(2)次の3分の1をロスアンジェルスとサンフランシスコで、(3)最後の3分の1を札幌で書きました。最後に千歳空港のレストランでパソコンを叩き終えて空を見上げると、どこかの航空会社の古いボーイングが空を駆け上っていって、雲の間に消えていきました。そして目の前には「アヴィオン」というレストラン。思わず笑ってしまいました。この『コンポーザー』の通奏低音は「ジェット機のサンバ」だと僕はずっと思っていましたので。

ちょっとそういう「空港の旅愁」のようなものをライナーの行間に感じ取っていただけると嬉しいのですが、まあ、それはないか(笑)。しかし、このアルバムのスタートはトム・ジョビンがカーネギー・ホールに向かって出発した1962年11月21日のガリアォン空港だと僕は思っています。その時のトムがどういう気持ちで米国に乗り込んだのかを想像するのは楽しいし、そういう想像は作品の理解に絶対に役に立つと思います。

ではこのアルバムのゴールはどこか? それは、ぜひCDをお求めの上ライナーをお読みください。

以上、近況報告を兼ねて。

2007年01月06日

『イネーヂト』のオリジナル『CBPO盤』の全貌(下)

前回の続きです。

昨年の秋にマイアミの中古レコード業者から「『イネーヂト』のオリジナル」という商品を購入しました。そのLPは上記のように以前に手に入れていたのですが、先方の「ボックス」とか「分厚いテキスト」とかいう表現が気になったので、騙されたと思って買ってみることにしました。料金はだいたい3千円くらいでした(送料別)。

その船便も着くまでに2ヶ月くらいかかったので、もしかしたら本当に騙されたかなあと思っていたら、12月中旬に荷が着きました。で、開けて驚きました。このレコードは最初はこういう形で発売…ではない…配布されたんだなあと。


ボックス内テキスト

ボックスの奥にはこういう本が収められています。セルジオ・カブラルによるトム・ジョビンの評伝です。



テキスト表

改めてその表紙です。こういうものが作られたことは知っていたのですが、とても立派な書籍の体裁をとっているので驚きです。ハードカヴァーです。



テキスト内側

内側の1ページです。ページ数にして213ページあります。ディスコグラフィもとても充実しています。



レーベル

レコードのレーベルも載せておきます。



以上、『イネーヂト』のオリジナルでした。改めて資料を見てみたら、4千枚しかプレスされなかったもののようです。主に博物館や教育施設などに配られたそうです。

2007年01月05日

『イネーヂト』のオリジナル『CBPO盤』の全貌(上)

明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。

新年を祝って(とってつけたようですが)、ちょっと画像を載せてみます。僕はCDやLPのカヴァージャケットも厳密に言うと著作権に引っ掛かると思っているので、そのこともあってほとんどテキストのみでこのブログをやっているのですが、珍しいものはやはりご紹介しておこうと……。

トム・ジョビンのアルバムの最近の再発では何と言っても『イネーヂト』が快挙でしたが、そのオリジナルはブラジル企画製作社(CBPO)とオデブレヒト財団による1987年のダブル・アルバムです。トムの60歳を祝ってヴェラ・ヂ・アレンカルが企画、ジャイロ・セヴェリアーノが手伝って実現したLPで、タイトルは『トム・ジョビン』でした。非売品で、数千枚しかプレスされなくて、関係者にだけ配られたレコードです(数字は正確ではありませんが)。



CBPOレコード表


これを手に入れたのは一昨年くらいだったと思います。



同レコード中左

同レコード中右


内側はこういう感じです。



同裏


裏側です。



CBPOボックス表


ところが上記はこの時に製作されたものの一部でしかなかったことが最近になってわかりました。実はこういうボックスに入っています(続きます)。

2006年10月27日

「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録(おまけ)

 「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録のおまけです。この文章では、トムの言葉の合間に面白おかしいエピソードがいくつも紹介されているのですが、その中の一つです。

 「トムは冗句の王様だ。ある時、彼とアセヂはLPのための編曲を準備しながらイタコアチアーラにいた。そこにピンポンのゲームに招かれた大勢の少女がやってきた。彼女たちは到着した。家の中で自己紹介が始まった。はじめまして。レイラ・フェーホです。ヴェラ・フェーホです。ソニア・フェーホです。マリア・フェーホです。七人の娘、父親、母親、祖父。全員フェーホなんだ。で、トムが自己紹介した。感激しました。アルフレッド・シュンボです」

岩切註:フェーホはポルトガル語で鉄、シュンボは鉛です。

2006年10月25日

「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録(7)

 「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録の最後の部分です。

……僕の人生には、輝きの中に、波の頂点に、最前線にいた時期があった。でも成功は本当にアーティストを混乱させる。もし君が一日中インタヴューを許可しなくちゃならないとしたら、テレヴィ局に行って、ブラジリア直行の飛行機を捕まえて、ニューヨーク、レシーフェ、モスクワまでノンストップで急行して、自分を見失ってしまう。飛行機の中ではこのセルジオ・ヒカルドのスタジオと同じ静穏さでは作曲できない。そう、ある種の匿名性はアーティストを保護する。ずっと静穏に製作していたのに、成功してから急いで次作を発表しなくちゃならなくなった人のケースは無数にあるだろう? 成功したある型を維持するためには非常に特殊な作り方を手に入れる必要がある。すべてを変えてね。家庭内の人生も、臓物も含めてね。

*このあとに地の文で、「これがアントニオ・カルロス・ジョビンの、いや、アントニオ・カルロス・ブラジレイロ・ヂ・アルメイダ・ジョビンの調子(tom)である」という結びの言葉があります。

2006年10月20日

「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録(6)

 「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録ももう残り僅かです。

……自分たちがいる段階を知って人が不安になるのはとても自然なことだ。僕もたくさんのものを支払わされている。新しい作品は?と訊かれたら、ドリヴァル・カイミのように答えるよ。胸糞悪い! 僕は新しいものは作っている。でもそれは公表していない。匿名性はアーティストを保護する。そしてすべては適切なタイミングで公けに発表される。さっきも言ったように、ポピュラー音楽ではそれは慣用的な話法の役割においてより明敏な問題になる。でも一般には、偉大な芸術作品は沈殿した材料で作られている。新しい材料で本当に良いものを作るのはとても難しい。50年代のエレクトロニクスの音楽家たちの問題はこれなんだ。彼らは沈殿していない材料と、動かし方のわからない機械を持っていて、手に負えない、まったく思いがけない結果をもたらした。だから創作者は自分の作品に関して最小のコントロールしかしていない。そして結局困難な地平に陥っている。旧知の材料を取り扱っていて、実際にブラジルで最大の成功を収めている現代の人物の実例を挙げるなら、シコ・ブアルキ・ヂ・オランダだ。彼はポルトガル語を異常なくらい良く知っているし、彼が作っているものは天才的だ。新しい絵の具を取り扱うのはとても難しい。シコは古い言葉を今までとは異なる方法で整理している。ギマランエス・ホーザも沈殿した材料を使っていた。ポピュラー音楽には毎年新しい流行がある。束の間の、滅びゆく流行がね。僕は沈殿したものを取り入れようとしたことは一度もなかったし、これからも決してしないつもりでいる。それは向こう見ずなことだと思う。もし君がヒットパレードに入りたくないのなら、それはとても良いことだ。もし入りたいのなら、それもとても良いことだ。家賃を支払い、ライスつきのフェイジョンを食べ、ビールを飲んで、その支払いをしなくちゃいけない一方で、僕はどんなことをしてでも一つの傾向を重視して曲を作るという過失をしようとは思わない。そしてここにいても外国にいても曲を書くことはできる。ギマランエス・ホーザがストラスバーグで書いていて、ジョアン・カブラルがバルセロナで書いているという事実の重要さは小さくない。材料は彼らの頭の中にあったんだ、ね?

2006年10月19日

「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録(5)

 またずいぶん間が空いてしまいまして申し訳ありません。「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録を続けます。

……僕は、すべての芸術作品は、小品も大作も、ポピュラーもクラシックも、特定の時代に密着していることを明らかにしたかった。ポピュラー音楽ではその問題は慣用的な話法のためにより明敏な問題になる。すべてのポピュラー音楽が流行に基づいているわけではない。不滅の時代は変化する。たとえたまたま終わりになる時が来るかもしれないとしても、バッハの不滅は絶対だ。君が彼の作品の初期が好きなのか中期が好きなのかとか、後退期があったのか復活期があったのかとかは、あまり重要ではない。バッハの作品を不協和音の用法という点で論じることができるかどうかも重要ではない(ところで彼は不協和音は使っていない)。大切なのは、話法なんだ。バッハのハープシコードが調律されていなかったか平均律だったかも重要ではない。でも彼がシンと言うのなら、それは大変重大だ。明らかに話法が変わるからだ。わかるね?

*これもまた何を言っているのか良くわからない箇所ではあります。翻訳の拙劣さを差し引いたとしても。

 上記の中でいちばん注目したいのは、「調律されていない」と訳したところで、もとの言葉は「desafinado」です。そして、トムはこの言葉を、「temperado」(ここでは「平均律」と訳しました)の反語のようにして使っています。「desafinado」というのは「temperado」の反語であって、「平均律ではない」という意味を含んでいることがわかります。面白いです。

2006年10月05日

「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録(4)

 「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録。今日は、ジャズについて述べている箇所です。

 拙著「三月の水」でもいくつかの発言を引用して強調しましたが、アントニオ・カルロス・ジョビンは自らのジャズとの関わり合いを明確にかつ執拗に否定しています。このことは、ジョビン・ミュージックのファンとしてはぜひとも知っておきたいと思います。

……僕はジャズに没頭したことは一度もなかった。たとえジャズがどんなに世界的な影響を誇っていたとしても。もし僕がアメリカ音楽を作るために自分の技能を使ったとしたら、僕が作れるブラジル音楽よりも千倍粗悪なものになるよ。僕はポルトガル語で話すし、モーホに上ったし、ノエルやピシンギーニャを知っているし、そういうものを聴きながら生涯を送っている。ボサノヴァの時代にアメリカ人がそれをラテン・ジャズの娘と呼んだ時には、混乱してしまったよ。音楽がバランサするとアメリカ人はそれをジャズと呼ぶ。アフリカ人が叩いているサンバまで彼らの国ではジャズなんだ。僕たちが立ち去ったあとにはアメリカ人が必ずやって来る。そしてハワイ音楽もキューバ音楽もブラジル音楽も捕まえて商業化してしまう。

*トムがここで言おうとしていることは、折を見て何度でも繰り返して取り上げたい重要なテーマです。いずれまた書きます。

 そう言えば、山下洋輔さんの「世界にとってアントニオ・カルロス・ジョビンは一人しかいなかった」という一文も必読です。「アントニオ・カルロス・ジョビン ボサノヴァを創った男」(エレーナ・ジョビン著)の翻訳版に収録されています。

2006年10月04日

「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録(3)

 日にちがあいてしまいましたが、「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録の続きです。

……でも、実際には、ブラジル的な主題を持った曲を作曲すると、普遍的な曲を作曲しようとするよりも、その曲がずっと容易に普遍的になると僕は感じている。ボサノヴァの場合もそうだし、ヴィラ・ロボスの場合もそうだ。ヴィラは交響曲の語法にブラジル的なものを配置した。時には民間伝承に基づいているものを、時にはそうでないものを。そして僕たちの伝統的なモデルを書いた。インプロヴィゼイションも、ロックのグループも、あるいはそういう感覚のほかのどんなものもなしにね。近頃では若手の作曲家が交響曲と向かい合おうとすると、すでに書かれたものごとがあまりに多いことに怖れをなしてしまう。そして新しい楽器を発明したりエレクトロニックに走ったりする誘惑に陥ってしまう。ヴィラは伝統的な楽器のために書いた。吹き矢の筒のためにも電気ギターのためにも書かなかった。ヘコヘコやザブンバを国際的に用いると、海外の楽器演奏者に厄介をもたらすことは明白だ。でもヴィラはそれらを楽譜に注入して強要した。彼はブラジルに最大の奉仕を提供することはできなかったと思う。世界最大の音楽家の一人になるために最良のことは、ブラジルのものごとを語るブラジルの音楽家になることだ。この国では才能のあるたくさんの人が国際的な師父の伴奏に従事している。

2006年09月27日

「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録(2)

 「ディスコ・ヂ・ボルソ」の冊子のトム・ジョビン語録の続きです。

……僕は、僕たちが大きなジレンマの中にいることを感じている。人間は、進歩の苦悩の中ですべてを破壊している。樹木を、河川を、動物を。立ち上るすべての煙突、自動車、燃焼を基本としているすべてのものが、空気中の酸素を破壊している。僕たちのたった8キロメートル上空を見てごらん。それはすでにものすごく広がってしまっている。結局、進歩はいくつかの問題を解決するだろうけれど、同時にサンパウロやニューヨークという神経症の都市を作り出している。リオデジャネイロにも苦悩がある。強盗、機関銃、アパートメント、孤立、冷房。僕は「マチータ・ペレー」のような曲を作って、辞書で意味を調べなくちゃならない人間の商売を続けている。マチータ・ペレーは奥地の鳥だ。彼は、洗剤を買ったり、スーパーマーケットに行ったり、洗濯機を買ったりする足しにはならない。それで彼は姿を変え始める。例えば、民間伝承的な姿に、実在するものに、あるいはサッシに。でもリオの雑踏がサッシとどんな関係がある? サッシはアパートメントは襲わないよ。

*最後のところは意味はあまり気にしないで流して読むのがトム・ジョビンの発言を楽しむ「コツ」だと思います。どうしてマチータ・ペレーが姿を変え始めるのだろうなどと深く考え込まないように。

2006年09月26日

「ディスコ・ヂ・ボルソ」のトム・ジョビン語録(1)

 「三月の水Águas de março」のオリジナルである「ディスコ・ヂ・ボルソ」の冊子には、トム・ジョビンの言葉をふんだんに盛り込んだ長文のエッセイが掲載されています。署名がないので確かなことはわからないのですが、これもセルジオ・ヒカルドか、あるいは編集者として名を連ねているルイス・ロボあたりが書いた文章なのではないかと思います。

 おそらくこの冊子に掲載されただけで埋もれたままになってしまっていた……他のところで引用された形跡のない……ましてや日本語になど絶対になったことのない……言葉なので、いつもながら拙劣な翻訳で恐縮ですが、紹介しておきます。「かたまり」ごとに、編集せずに訳すことにします。

 1972年5月に発売されたものであることを頭に入れて読むと面白いです。

……原則として僕は45年間プロテスト音楽や政治参加的音楽と関係していないと語ることを好んでいる。僕が本当に欲しているのは音楽を書くことだ。ボサノヴァとかナォン・ボサノヴァとかいうようなレッテルには関心がない。

*これだけは短いですが、このあと出てくるのは結構長いです。

2006年06月03日

ケントン、ルゴロ、ミヨーとくれば……

先日スタン・ケントンの名前がちょっと出てきましたが、かつてアート・ペッパーを最大のアイドルとしていた僕としては、スタン・ケントンとトム・ジョビンの不思議なつながりについて一言触れておかないわけにはいきません。

ケントン楽団の初期の立役者は編曲も担当したトランペットのピート・ルゴロですが、ルゴロの師は誰あろう、かの「フランス六人組」のダリウス・ミヨーです。ミヨーと言えば、その弟子の中にはデイヴ・ブルーベックやバート・バカラックもいますけれど、もう一人、ハンス・ヨハイム・コールロイターもその生徒の一人です。そして、トム・ジョビンに最初にピアノを教えたのがこのコールロイターなのです。

だから、ケントンとジョビンはどこかでつながっていたのだという話。トムがそれを意識していなかったはずはありません。まあ、こんな話を面白がるのは僕くらいのものかもしれませんが……。

あと、「ボサノヴァの歴史」によると、ジョアン・ジルベルトはケントン楽団のトロンボーニストのフランク・ロソリーノの音色をどうすればヴォーカルで出せるかを「ポルト・アレグレ時代」にずいぶん研究していたそうです。

ところで、いわゆる「ケントン・ガールズ」の女性ヴォーカルの中では、僕はアニタ・オデイもジューン・クリスティもクリス・コナーも大好きですけれど、一人挙げるとしたら、実はアン・リチャーズです。哀しい死に方をしたこの美しい歌姫は、自己名義のアルバムは少ないのですが、どれもとても愛すべきレコードで、人柄がしのばれる名盤です。彼女の「温かさ」は、ケントン・ガールズの中ではちょっと異色でもあります。ちょっとあやういところも含めて、今後もずっと支持したい名花です。

というわけで、今、アン・リチャーズの「リトル・ガール・ブルー」を聴いています。うーん、もう一杯飲みたくなってきました……。

*6月1日までのアクセス数が210276と、21万を超えていました。いつもありがとうございます。

2006年05月29日

スタン・ケントン・イン・アントニオ・ブラジレイロ

昨日の日曜日は上田力さんから呼び出しをいただいて、初夏の夕方に楽しくお喋りをしながら食事とアルコールをご馳走になってきました。

いつものようにたくさんのことを教えていただいたのですが、一つ紹介すると、『アントニオ・ブラジレイロ』の冒頭の「ソ・ダンソ・サンバ」の間奏はスタン・ケントンのパクリだよね、と上田さん。ああ、そうだったかと思って、自宅に帰って慌ててスタン・ケントンを引っ張り出し、おお、これだったかと感激しています。

しかし、『アントニオ・ブラジレイロ』を聴いた日本人のどのくらいの人が「これはケントンだ!」と気が付いたでしょうね。世界中でもどうでしょうね。

トムと同時代に生き、世界中の音楽を分け隔てなく聴いてきた上田さんだから理解できることがたくさんあると思います。

2006年05月03日

トム・ジョビンはドリヴァル・カイミに付き添ったか?

こがねいさんからご指摘いただいた件の回答です。

「トム・ジョビンとドリヴァル・カイミがアンディ・ウィリアムス・ショウに同時に出演したことがある」というのは、やはり僕の早とちりのようです。どうやら、一緒に出演したのではないようです。

僕がそう思い込んだのは、いくつかの文献にトムとカイミとアンディ・ウィリアムスが一緒に写っている写真が載っていて、そこに「Tom e Caymmi com Andy Williams em seu programa na TV americana,1965」(Songbook TOM JOBIM)とか「Com Dorival Caymmi no programa de televisão de Andy Williams」(Cancioneiro Jobim)といったキャプションが書かれていたからでした。ドリヴァル・カイミがアンディ・ウィリアムス・ショウに出演したのはトムの仲介があったからだという話はどこかで読んで覚えていたので、トムもカイミと一緒に出演したのだと思い込んでしまったようです。

でも、こがねいさんのご指摘のように、この写真のトムの服装はラフ過ぎるし(ポロシャツなのでしょうか?)、アンディ・ウィリアムスは台本のようなものを持っています。そう言われてみると確かに、本番中ではなく、まるでリハーサル中のような写真です。

それでいろいろと引っ繰り返して調べてみたのですが、セルジオ・カブラルの「Antônio Carlos Jobim」(未邦訳)の239ページに、こういう記述がありました。

「彼(トムのこと(岩切註))はアンディ・ウィリアムスの番組に三回出演した。この番組はアメリカ合衆国のテレヴィでは音楽界で最高の権威であり、この国の最高の視聴率で全米に放送されていた。(中略)このブラジル人作曲家(トムのこと(岩切註))はアンディ・ウィリアムスと大の友人になり、ドリヴァル・カイミの保護者のようなもの(uma espécie de padrinho)になった。後者がテレヴィ番組に出演した時には収録の開始まで彼をあやしていた(paparicando-o)」

要するに、「収録直前まで付き添っていた」ということのようのです。すなわち、「本番には一緒に出演しなかった」ということのようです。

また、この時のことはエレーナ・ジョビンの「アントニオ・カルロス・ジョビン ボサノヴァを創った男」(青土社)の160ページにも書かれています。翻訳が出ているので引用はしませんが、これも同様に、「トムは自分は出演しないのに、カイミのリハーサルに立ち会っていた」という主旨のことがほのめかされています。

以上、こがねいさんのご指摘で自分の思い込みを正すことができました。どうもありがとうございました。また、混乱を招くようなことを書いてしまって申し訳ありませんでした。

*でもその場にトムもいたのなら、一緒に出演させなかったNBCは、まったくしようがないですね。TVなんて古今東西そんなものでしょうか?

*それにしても、ほとんどの方にとっては「一体それがどうしたんだ?」という話かもしれません……(でもこういうディテールを積み重ねていくと、時には鉱脈を掘り当てることもあると思っています)。

2006年03月08日

特効薬はボサ(昨日の続き)

『メモリーズ・オブ・ジョビン〜ヴォーカル篇』の「Só tinha de ser com você(君でなければ)」の解説にある「64年、ジョビンがサンパウロで行なった初めてのライヴ」という部分が本当ならば(たぶん本当だと思うのですが)、これは1964年10月26日にサンパウロ・パラマウント劇場で行なわれた『特効薬はボサO remédio é bossa』というショウのライヴ録音だと思います。

「ボサノヴァの歴史」の新装版(音楽之友社)の389ページに、そのショウについての記述があります。ショウのオープニングで、オス・カリオカスの4人がアントニオ・カルロス・ジョビンの名を告げ、トムがステージに現われると、2千本のバラがステージの上に降り注いだと。そしてトムはピアノの前に座り、世界で初めて「Só tinha de ser com você」を歌い始めたと。

このショウ、何よりもエリス・レジーナがマルコス・ヴァーリと歌った「誰のものでもない大地Terra de ninguém」が有名なのですが、さて、面白いことに、そのエリスとマルコスの歌はこがねいさんご指摘の『ア・ボサ・ノ・パラマウントA bossa no Paramount』に収録されています。こちらは1964年5月の『オ・フィーノ・ダ・ボサO fino da bossa』のショウを収録したものだとされているのに。

「ボサノヴァの歴史」で確認すると、『特効薬はボサ』に出演したのは、トム、エリス、マルコス・ヴァーリ、アライヂ・コスタ、シルヴィア・テリス、カルロス・リラ、ヴィニシウス・ヂ・モライス、パウリーニョ・ノゲイラ、オス・カリオカス、ホベルト・メネスカル、オスカル・カストロ・ネヴィス、ジンボ・トリオ、クアルテート・エン・シーなど。

そして、『オ・フィーノ・ダ・ボサ』に出演していたのは、ナラ、ワンダ・サー、ジョルジ・ベン、セルジオ・メンデス、マルコス・ヴァーリ、ホヂーニャ・ヂ・ヴァレンサ、オス・カリオカス、ヴァルテル・ヴァンデルレイ、アナ・ルシア、パウリーニョ・ノゲイラ、ジンボ・トリオ、クラウデッチ・ソアレス、アライヂ・コスタなど。

とすると、『オ・フィーノ・ダ・ボサ』を収録したものだとされていた『ア・ボサ・ノ・パラマウント』には、『特効薬はボサ』の方が収録されていたという可能性が高くなってきます。『オ・フィーノ・ダ・ボサ』には出演していない(と思われる)エリスやヴィニシウスやクアルテート・エン・シーの録音が収められているのですから。

と言うよりも、2つのショウの録音を寄せ集めたものなのではないかと思います。『特効薬はボサ』には出演していなかった(と思われる)ワンダ・サーやヴァルテル・ヴァンデルレイの録音も入っているのですから。

この時期の一連のパラウマウントのライヴは何枚ものLPで発売されていて、『ア・ボサ・ノ・パラマウント』のほかにはその姉妹篇の『オ・フィーノ・ダ・ボサO fino da bossa』もCDで聴けるのですが、いずれも上記の2つのショウをツギハギして出されたものだったのではないかと推測します。ほかにも『フェスティヴァル・ダ・バランサFestival da balança』とかいろいろあって、それらのアルバムにはその前後のいくつかのパラマウントのショウの録音が収録されているようです。

なお、『メモリーズ・オブ・ジョビン〜ヴォーカル篇』は、RGEの音源を集めたもの。『ア・ボサ・ノ・パラマウント』『オ・フィーノ・ダ・ボサ』ももちろんRGEです。

何だかすごく複雑な話になってしまいましたが、上記の過去のLPの中に、トムの「Só tinha de ser com você」が入っていたのかもしれません(私の手持ちの中には見つかりませんでした)。この曲以外にトムの録音が残っているのかどうか、とても気になるところです。

2006年03月07日

1964年のサンパウロでのライヴ?

日本独自の編集盤である『メモリーズ・オブ・ジョビン〜ヴォーカル篇』(ビクターエンタテインメント 1995年)というCDに、珍しいトラックが入っています。

曲は「Só tinha de ser com você」(ここでの邦題は「君でなければ」です)。トム・ジョビン本人のピアノの弾き語りに、バックにはヴィオラォンとベースとドラムスの音が聴こえます。ライヴの演奏で、ワンコーラスだけであっさりと終わってしまうのですが、トムのヴォーカルは危なげなく、珍しく安心して聴けるトラックです。

この曲、解説に「64年、ジョビンがサンパウロで行なった初めてのライヴ」と書いてあります。この時の音源、もしもほかに残っているのなら、まとまった形で日の目を見ることを切に希望します。

*チェックを忘れていたのですが、2月28日まででアクセスが160669となり、16万を超えていました。いつもご覧いただいてありがとうございます。

2006年03月05日

もしトムが働き者だったら

*今日(もう昨日)、仕事の帰りに井の頭公園で一本ビールを飲もうと思ってコンビニエンスストアに寄ったら、レジの女性に「おひさしぶりです」と声を掛けられて恥ずかしい思いをしました。この「おひさしぶりです」には、「春ですね。公園のビールの季節になりましたね」という意味が込められています(と思います)。

多くの文献で確認できることですが、アントニオ・カルロス・ジョビンという人はある意味ではとても怠け者だったようです。

まず、作曲した曲を楽譜に書こうとしない。本当に必要に迫られるまで、自分では楽譜にしなかったようです。これはニュウトン・メンドンサも同癖で、それで二人はいつも「どちらが楽譜に書き取る役を担当するか?」で言い争っていたと言います。

それから、自分の作品の編曲を書こうとしない。それ(編曲)で売り出していた初期を別にして、キャリアの中盤にはデオダートなどに、後半にはパウロやジャキスに編曲を任せていたのは、ただただそれが面倒だったという理由からのようです。実際、デオダートのアレンジなどは口頭でかなり指示をしていた様子が聴き取れます。

もしトムがそれほど怠け者でなかったら、ニュウトンとの共作ももっと形として遺っていたはずですし、自分の作品をもっと自分で編曲していたはずです。今となってはちょっと残念な気もしますけれど、そういうところが人間的で面白いですね。